皆様、お疲れ様です!テスト向けにちょっとメモ書き保管しようと思います。
フルシチョフ時代とキューバ危機
背景
(a)アイゼンハワー期(1951-1961)のアメリカ
(ⅰ)マッカーシズムの嵐
アメリカ国内の共産主義への恐怖→マッカーシーが利用
数百人を共産主義者と追及
(ⅱ)大量報復戦略
原水爆の核抑止に依存する防衛、通常兵器の削減
(b)インドシナ
フランス軍のインドシナでの敗退(対ヴェトミン)
フランス、アメリカに介入要請→拒否
1954.4-5 和平協定:南、北ヴェトナムの成立(56年に統一選挙と決める)
フルシチョフ期のソ連外交
(a)集団指導体制からフルシチョフの台頭
1953年3月5日 スターリン死去
マレンコフの辞任
マレンコフ:軽工業、平和共存→1955.2.8辞任
フルシチョフ、モロトフ:農業、重工業
フルシチョフの権力確立
モロトフ:対西側強硬
フルシチョフ:平和共存(オーストリアの平和条約(1955.5.15)、ユーゴスラヴィアとの関係改善5.26-6.2(共同宣言、6.1))→勝利
(b)スターリン批判
第20回党大会(1956.2.14-25)
フルシチョフ秘密報告(2.25)
反響
ポーランド:ポズナン暴動(1956.6.28)→改革派寄りに
ハンガリー:ハンガリー事件(1956.10.24)ソ連軍介入(11.4)
本格介入→弾圧
中ソ対立:中国(毛)、スターリン批判に反発、ソ連と徐々に対立
→ハンガリー事件後、中国、フルシチョフ批判を活発化
(c)フルシチョフの対外政策
・ミサイルギャップ論:ソ連、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功(1957)
ミサイル技術でアメリカはソ連に遅れをとっているという幻想が生じる
・ベルリン危機:西ベルリンからの西側の軍の撤兵要求(1958.11)
アイゼンハワー(のちケネディ)は拒否→ベルリンの壁建設(1961.8.5東ドイツ提案に同意、13-建設開始)
キューバ危機
(a)背景
・ケネディ大統領の就任(1961.1)
・キューバでのカストロの政権奪取(1959)→CIAによるカストロ政権転覆計画失敗(1961)(アイゼンハワー時代に計画、ケネディ承認)
(b)ミサイル危機(1962.10.22-27)
10月14日、アメリカ キューバにミサイル基地を発見(キューバには核兵器が持ち込まれたことが後日判明)(ソ連、西ベルリンでの譲歩を狙ったか)
米政権内の選択肢:ミサイル基地の破壊、キューバへの全面侵攻、海上封鎖
※キューバ海上封鎖発表
10月22日キューバ海上封鎖
10月27日U2領空侵犯(アラスカ)、キューバ上空でU2撃墜、米国駆逐艦がソ連潜水艦を攻撃(ソ連原潜各魚雷搭載、米知らず)
ソ連艦船引き返す:フルシチョフには大失点
10月28日妥協成立:キューバから核ミサイル撤去、基地解体、キューバに侵攻しない、トルコからの核ミサイル撤去
(c)帰結
・熱核戦争の恐怖
・ホットラインの設立
・米ソ対等の核軍備へ
フルシチョフの失脚
(a)当初の解任危機は回避(1957年)
(b)経済の行き詰まり
(c)キューバ危機
(d)党改革
(e)失脚
1964.10.12 党幹部
14総会 フルシチョフ辞任
ヴェトナム
(a)背景
ヴェトナムでの状況悪化
・南ベトナム政府支持の弱体化
・北ベトナム活動活発化
→ジョンソン大統領のドミノ理論
(b)介入の拡大
・トンキン湾事件(1964.8)アメリカ駆逐艦が攻撃を受ける→北べとナム空爆へ
・ジョンソン大統領再選後(1964.11)介入の一層の拡大
・1968.1.31 北ヴェトナム、テト攻勢→アメリカ政府動揺、和平交渉模索も進展なし
フルシチョフ時代のソ連外交を説明する
(a)国際要因
勢力圏の安定・拡大狙う?
(b)国内要因
スターリン批判、中ソ対立は説明
冒険主義は国内の政治過程の産物か?
(c)個人
フルシチョフ個人
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