【慶應通信】西洋史特殊 地域研究 ロシア メモ書き2

学び

皆様、お疲れ様です!テスト向けにちょっとメモ書き保管しようと思います。

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ヨーロッパ世界への登場

1 ピョートル大帝(1682-1725)
・ 西欧諸国への関心
・ 1682年即位(10歳)、1697年外遊(プロイセン、オランダ、英国など)
・ 軍の近代化
・ サンクトペテルブルクの建設
・ →非西欧地域の文明化を担う、という自意識(→カフカス地方や、遊牧民地域への拡大)

2 北方戦争(1700-1721)
・ スウェーデンの台頭(1617-):バルト海進出、デンマーク排除
・ スウェーデン対ロシア、ポーランド、デンマーク(北方同盟)
・ 当初の敗北(1700、ナルヴァの戦い)、徴兵、税制の整備
・ ポルタヴァの戦いでの勝利(1709)を転機にロシア優勢に
・ →ロシアの勝利・台頭(1721、二スタットの和平)、スウェーデンの衰退
・ 〔ロシア帝国〕の宣言、バルト海への進出

エカテリーナ2世(1762-1796)

1 領土の拡大
・ 露土戦争(1768-1774)の勝利、黒海北側の獲得(含む、クリミア半島)
・ シベリア入植の拡大、アラスカまで領地に
・ ポーランド分割への参加(1772,1793)
2 統治の西欧化
・ 「県」制度の導入、立法委員会の設置
・ 農奴制の強化
・ ドイツ人入植の積極化

アレクサンドル1世とナポレオン戦争

1 アレクサンドル1世(1801-1825)
・ 自由主義的教育(スイス人ラ・アルブによる)と専制の原則の教育(サルトィコフ大佐による)
・ 自由主義的改革:スぺランスキー改革:ミハイル・スぺランスキー政治顧問、憲法制定・国家機関の整備、立憲君主性の提唱(1812解任)
2 ナポレオンの台頭・祖国戦争
・ 1804ナポレオン、フランス皇帝に
・ 1805第三次対仏第同盟に参加(イギリス、オーストリアと)、アウステルリッツの戦いで敗北、ナポレオン、プロイセン・ロシア軍を撃破(1807)
→ ティルジット条約 ワルシャワ大公国建設、フランス、ヨーロッパ西部・中部での自由を、ロシアはヨーロッパ北部・南東部での自由を獲得(カフカスへの進出、フィンランドの獲得)
・ 1806 ナポレオン大陸封鎖
・ 1812 祖国戦争(ナポレオン、モスクワを目指す)フランス軍敗北
・ 1814-15 ウィーン会議:勢力均衡原則の確認、ポーランド分割、正統主義。
・ その後神聖同盟設立を主導(ポーランド立憲王国、フィンランド大公国には自治)
※ヨーロッパの大国としてのロシアの本格的な台頭

クリミア戦争(1853-5)

1 背景
・ ニコライ1世の外交:ヨーロッパ革命の阻止、オスマントルコ衰退に乗じたバルカン・近東への進出
2 クリミア戦争
・ エルサレムの管理権問題(ギリシャ正教からカトリックへ)→ロシア、トルコへ圧力
・ 1853トルコ、ロシアへ宣戦布告、緒戦のロシアの勝利→ロシア、トルコへ圧力、54年秋からクリミアが主戦場へ(55年9月までの長期戦に)
→ ロシア敗北、アレクサンドル2世「大改革」へ
・ 「大改革:農奴解放、国家財政制度の整備、ゼムストヴォの設置、教育制度改革、司法制度改革

西欧派とスラブ派

・ ナポレオン戦争(1812)、デカブリストの乱(1825-26)※
  農奴解放、自由拡大を求める(立憲君主制~共和制まで多様)→ロシアの進路への関心(ドイツの哲学の影響):西欧派とスラブ派
・ 西欧派:ロシアは西欧を見習って、西欧の技術・文化・政治制度などに学ぶべき(チャダーエフ、ゲルツェンなど)
・ スラブ派:ロシア文明の独自性を強調、ロシア独自の徳(共同主義)、農村共同体、家族、正教会の重視(K.アクサ―コフ、ホミャ―コフ)

帝政時代のロシア外交を説明する

1 国際秩序上の位置
・北方戦争以降、ヨーロッパ大国しての安全保障の獲得
・ただし、東側への拡大などはそれだけでは説明できない
2 経済的要因
・東側森林地帯での毛皮の獲得のための拡大、ステップへの進出
3 西欧化、文型化の氏名(ツァーリの専制支配の特性)
・ ヨーロッパ文明の影響→ロシアは非文明地域を文明化する使命を持つという自意識
・ ヨーロッパ占領地域では、後進意識も持つ(例、フィンランドへの自治)
・ ヨーロッパからの蔑視→スラブ主義(スラブ派)の誕生
4 個人役割
・ツァーリ個人の役割

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