【慶應通信】西洋史特殊 地域研究 ロシア メモ書き11

学び

皆様、お疲れ様です!テスト向けにちょっとメモ書き保管しようと思います。

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冷戦の終結

デタントの崩壊 新冷戦

(a) ソ連の第三世界への勢力拡大
第三世界諸国との友好条約(善隣友好条約)の締結(1971-1984)(エジプト、イラク、インド、ソマリア、アンゴラ、モザンピーク、ヴェトナム、エチオピア、アフガニスタン、南イエメン、シリア、コンゴ、北イエメン)など
・北ベトナムと関係強化
(b)アフガニスタン侵攻(1979.12)
背景
ムハンマド・ダウド政権(ソ連が支援)
アフガニスタン人民民主党(共産党)弾圧1977、イスラム勢力も弾圧
人民民主党ハルク派によるクーデター成功1978年4月27日→内部抗争・ソ連の支持獲得競争・ハルク派によるパルチャム派粛清、地方での権力固めはせず
内戦(1979年3月)
イスラム主義者、その他が政府軍に対して蜂起
ソ連、政権支援へ
ハルク派内の対立激化:親ソ連的ではないアミン主導権ベトナム連が肩入れしたタラキ大統領殺害)
介入の決定
タラキ殺害→アンドロポフKGB議長、ウスチノフ国防相主導で介入方針策定、1979年12月12日政治局会議で正式決定
(c)アメリカの人権外交
デタントの継続か、人権化→二重基準の外交へ
(d)新冷戦
レーガン大統領の登場(1981):対ソ強硬派、「悪の帝国」、
SDI構想
ただし、83,4年ごろからソ連に対話を呼びかけ始める。
(ソ連は反応せず、指導者の高齢化、プレジネス82年死去、アンドロポフ84年死去、チエルネンコ85年死去)

ゴルバチョフの登場、冷戦の第一の終わり

(a)ゴルバチョフの登場とゴルバチョフ期の政策決定過程(1985)
ゴルバチョフ書記長就任(1985):1931年生まれ
シェワルナゼ外相の就任(自分で外交の主導権を握る)
政治局人事の刷新(1985)
→対外政策決定過程に関しては、ゴルバチョフ個人の主導権
(b)核軍縮
ソ連が軍縮提案→西側の譲歩
ss20配備中止、核兵器半減の提案、86年10月米ソ首脳会議
INF全廃条約(1987.12)
※軍縮提案によって西側の先手を取る、それによって威信を保つ
→アフガニスタン撤兵へ(1987.12)
(C)東欧革命と冷戦終焉宣言
1988年ごろから、東欧諸国への不介入を明言(いわゆる「プレジネスドクトリン」の放棄)
→1989年東欧革命
国内の改革派主導:ポーランド、ハンガリー
国際的影響大:チェコスロヴァキア、ブルガリア、ルーマニア(流血)、東ドイツ(ベルリンの壁崩壊、89年11月9日)
1989年12 マルタでゴルバチョフとブッシュによる冷戦終焉宣言
※「和解」としての冷戦終焉
冷戦後の世界は国際協調による秩序構築が可能

ドイツ統一、湾岸戦争、ソ連の解体、冷戦の第二の終わり

(a)ドイツ統一
どのような方式で統一するか:対等合併か、吸収合併か
吸収合併=Natoにドイツ残留
ソ連:ドイツのNATO加盟反対
アメリカ:残留指示
1990年5月、ソ連、ドイツのNATO残留受け入れ→事実上の吸収合併へ(1990.10)
(b)湾岸戦争
サダム・フセインのイラク、クウェート侵攻(1990.8)
アメリカ、強硬策へ(1991.1実戦)、ソ連何もできず
(c)ソ連の解体
1991.8 モスクワでクーデタ未遂、12月ソ連解体
※「ソ連の敗北」としての冷戦の終焉
→冷戦後の世界は「正しい」アメリカの一極集中

ゴルバチョフ期のソ連外交を説明する

(a)国際要因
レーガンのSDIなど対ソ強硬策によって音をあげた?
(b)国内要因
ソ連国内の改革を進めるための外的環境整備
(c)個人
ゴルバチョフの主導権

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