皆様、お疲れ様です!元気にしていますか?自分のレポート作成の関連でネタ収集、ちょっとこの手の話を書き記しておこうかと思いまして・・・。色々と訳わかめなことについて集めていこうと思います。皆様は、コックリさんとかやってみたことはありますか?あれに似た感じで神おろしという儀式があります。そのような神おろしをまとめたものが日月神示です。今回のテーマは、日本のオカルト界において、その異質な輝きと深遠な内容で人々を魅了し続ける謎の書物――「日月神示(ひつきしんじ)」です。一見すると難解で抽象的な記述が並ぶこの神示。しかし、その奥底には、現代社会の変容、そして来るべき人類の未来までもが暗示されているというのですから、背筋が凍る思いがしませんか?
以下、Wikipediaからの引用を中心に記載しております。
日月神示
日月神示(ひつきしんじ、ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物です。岡本天明は、昭和19年から27年に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に八巻の神示が降りたとされています。昭和19年から終戦直後の混乱期にかけて書き記されたその内容は、神道、仏教、キリスト教など、様々な宗教観が混淆し、独特の言葉遣いで宇宙の真理や未来の出来事を語っていると言われています。自動書記……それは、意識とは異なる力が筆を走らせる現象。岡本天明氏自身も、その体験は常識を超えたものであったと語っています。一体、どのような存在が、彼を通して私たちにメッセージを送ろうとしたのでしょうか?
岡本天明
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 – 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県倉敷市玉島出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。その直後、同神社の社務所で大本系の関連啓示となる『日月神示』(別名:『ひふみ神示』、『一二三神示』)を自動書記する。この自動書記現象は以降約17年間にわたって続き、後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。また、書かれた文体は漢数字と独特の記号、そして、若干のかな文字などからなり、書記した天明自身も当初は全く読めなかったといわれている。その後、仲間の神典研究家や霊能者の協力のもと少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻の岡本三典の研究と努力で、一部を除きかなりの巻が解読されたといわれている。一方で日月神示の読み方や解読は8通り有るといわれ、その内の1つ、2つに成功したとの認識が関係者の間では一般的である。
原文について
原文は殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成されており、抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有ります。本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されていますが、他にも、神霊より発表を禁じられていると主張する「巻」が13巻有ります。 日月神示はその難解さから、書記した天明自身も当初はほぼ読むことが出来なかったですが、仲間の神典研究家や自身を霊能者する者の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年(大正6年)11月9日 – 2009年(平成21年)6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたといわれています。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。尚、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」又は「一二三神示」と呼ばれます。 日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除き殆ど知られていなかったですが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたといわれています。
麻賀多神社の社務所で天明が最初に自動書記で書かされた原文は下のようなものであった。 「二二八八れ十二ほん八れ ㋹の九二のま九十の㋹のちからをあら八す四十七れる」
これは次の通りに読めると言われている
「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」
続いて
「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四 いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 九の四八まって二十十七一九六てある」
これについても読み方は
「仏もキリストも何もかもハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ 今一苦労あるが この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ この世始まって二度とない苦労である」
解釈としてはマコトの神が世に出現して神の力を現して、すべてを助け何の苦労もない理想的な世界に立て直していくが、その前には人類は未だかつてなかったほどの大災厄や大試練を迎えなければならない。
助かるためには身魂(心、精神、身体)を絶え間なく磨き、鍛練しつつ備えよ。磨いていなければ助かることが出来ない。という内容だと考えられている。
※ 日月神示の中ではこのような大災厄や大試練を「三千世界の大洗濯」や「大峠」と呼んで、多くの帖で書記されている。この大峠は我々の住むこの現界のみならず、神界、霊界、幽界なども含めたすべての世界とすべての存在に等しく起こるとされ、森羅万象のうち何ひとつそれから免れることができるものは存在しないという。また、この現界よりもはるかに高次元で高度と思われる神界の神々や守護神といった存在でもこの大峠を越せない存在があるという。
この身魂磨きや心の浄化、また正しい食生活で身体を健康で強壮なものに保っていくことの大切さは日月神示の主題と言っても良く、我々ひとりひとりがこの現界をより良く生きるためにも、この先に起こるとされる大峠を無事に乗り越えるためにも極めて重大なことであり日月神示自体が降ろされた理由もこれに尽きると考えられる。なお、日月神示はこれらの帖を手始めに昭和19年から天明が亡くなる2年前の昭和36年まで17年間にわたり書記されていく。神示には「人間の生き方」「正しい食生活について」「夫婦の本当のありかた」さらには「霊界」の実相(霊界のことについては節を設けて後述)についても書記されているなど非常に広範囲にわたっての記述が見られるが、未来に関するいわゆる「予言書」的な記述部分も多く見られる。また、日月神示はそのほとんどが数字や記号で書記されているが、その理由を神霊自らが神示の中で 「高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなす「レ」と「〇」と「+」があるのみ。また高度の霊人の文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである」(二日んの巻第十三帖)や「天人同志の文字は数字が多いぞ。天人の言葉はマコトであるから、ただ一言で万語を伝え得るぞ。」と「星座之巻」第十八帖、第十九帖で述べている。同様なことは18世紀の巨大な科学者にして政治家であり、また、その後半生は霊能者として有名なスウェーデンの貴族であるE.スウェデンボルグも天界探訪の事を記した自身の著作で「天人の文字は数字が非常に多かった。」と書いていて興味深いものが有る。日月神示より以前に他で出された神示類ではこのようなことは見られず、神霊が「今まで他に出て居たのは皆、神示先(ふでさき)ぢゃ。ここは神示(ふで)ぢゃ。キの神示ぢゃ」(カゼの巻第六帖、第七帖)と書記させている。
また、「アメの巻」第十三帖でも「外で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」とも語られている。
また、一方ではこの神示は単に現界に生きる人間のみならず、天界や霊界、また、その他多くの世界に住んでいる存在(神、竜神、天人、天使、霊人達)にも等しく与えられているらしい次のような記述も見られる。「この神示は、神と竜神と天人天使と人民たちに与えてあるのぢゃ」と「極め之巻」第十八帖で述べられている。
日月神示の降ろされた時代背景について
第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史のことを聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた。扶乩(フーチ)とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人が一組になって行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一など、十数名であった。その場において審神者(サニワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中のため、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。(※この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説がある。)この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。このままでは日本は滅びるだけだ。そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺うことを天明に促し求めたといわれている[要出典]。しかし、それは天明によって無事に回避されたという。「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語ったことと、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせたことであった。神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかったはずだが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていたために終戦時に自決を思いとどまった者も多く居たという。
日月神示が遂に降ろされる
日月神示の自動書記が始まる約2ヶ月前のこと、天明氏は扶乩(ふき)という占いの一種を試みたそうです。そして、その際、「天之日月神(あめのみつきのかみ)」という神が現れたと言います。しかし、神典研究家であり神名にも詳しかった天明氏でさえ、この天之日月神がどのような神様なのか、どこにお祀りされているのか、しばらくの間分からなかったと後に語っています。
この日、天之日津久神社で始まった出来事が、後に日月神示と呼ばれることになる神聖な啓示の始まりであり、その発現において非常に重要な日となりました。そして、不思議なことに、書記を終えた時には、先ほどまでの右腕の激痛は嘘のように消えていたそうです。その後も、神示が降りてくる際には右腕が痛み、書き終えると治まるという繰り返しの現象が続いたと伝えられています。
しかし、特に額の部分から衝撃が来たこと(天明氏自身の回想によると、それまでの霊体験で幽界からの感応は、ほとんどが体の背後からだったそうです)、そして激痛を感じながらも気分が悪くなかったことから、これは神界からの感応であると思い直し、確信に至ったと言います。(神界からの感応と幽界からの感応の違いについては、日月神示の別の箇所で触れられています。)
それから約2ヶ月後の6月10日、天明氏は同郷の先輩である高田集蔵氏に誘われ、千葉県印旛郡公津村台方(現在の成田市台方)を訪れます。驚くべきことに、そこには扶乩の際に現れた天之日月神をお祀りする「天之日津久神社(あめのひつくじんじゃ)」という神社があったのです。この神社は、麻賀多神社という由緒ある神社の末社であり、本殿に向かって右側の後方に位置していました。
天明氏がこの天之日津久神社に参拝し、厚くお礼を申し上げ、社務所で休息を取っていたところ、予期せぬ出来事が起こります。画家でもあった天明氏は、常に矢立(やたて:筆と墨を入れる道具)と画仙紙を持ち歩く習慣がありましたが、その時も例外ではありませんでした。すると突然、額のあたりに「ピリッ」とした強い衝撃が走り、同時に右腕に耐え難いほどの激痛を感じたのです。
無意識のうちに矢立と画仙紙を取り出し、筆を画仙紙にのせたところ、自分の意思とは全く関係なく、猛烈な勢いで筆が走り出し、意味不明な殴り書きが始まったと言います。天明氏の言葉によれば、それはまるで右腕に焼火箸を突き刺されたような激痛だったそうです。
以前から霊的な体験が豊富で、自身も霊媒を務めた経験があった天明氏は、右腕の激痛を感じた瞬間に、これが自動書記の前触れかもしれないと直感的に思ったそうです。同時に、これほど強く肉体に感応するのは、従来の経験から考えると幽界からの感応ではないかという困惑も覚えたと言います。
これ以前に天明氏が経験していた自動書記や霊的な現象は、自身が中止しようと思えば止めることができましたが、この時の自動書記は全く異なりました。中止しようとすると、右腕の激痛がさらに耐えられないほどになり、全く自由にならなかったというのです。
なお、この時に初めて書記されたものが、日月神示の第一巻である「上つ巻」の第一帖と第二帖であったということです。
天の岩戸
日月神示によると、昭和20年の段階で奥の神界の岩戸は開かれており、中の神界における岩戸開きが最中とされ、次の世の型を急ぐと述べられている(「夜明けの巻」第十一帖)。 岩戸開く仕組みについては「下つ巻」第二十二帖で「岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、・・・」と明かされていない。 岩戸が開けるには、一苦労、二苦労と困難が訪れるとされ、子の年に岩戸が開かれると予言されている。 「あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ。一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。」(「夜明けの巻」第十二帖) 昭和20年以後の子年は、昭和23年(1945年)、昭和35年(1960年)、昭和47年(1972年)、昭和59年(1984年)。 この後、一八十(イワト)が成ったとする平成の時代が訪れ、日月神示で示されるアヤワは一八十の位置にあると飛鳥昭雄は述べている。
この書物は非常に広範囲にわたって記述されており、「人間の生き方」「正しい食生活について」「夫婦の本当のありかた」さらには「霊界」の実相などが含まれています。また、未来に関するいわゆる「予言書」的な記述部分も多く見られます。
日月神示の内容は、自然の摂理や、人間の生き方、未来の予言など多岐にわたっています。日月神示は、多くの人々に支持されており、その影響は、宗教、政治、芸術、文化など、様々な分野に及んでいます。
日月神示は、すべてが真実であるとは限りません。しかし、日月神示には、人々の生き方や未来について、多くの示唆を与えてくれる内容が含まれています。日月神示を読み解くことで、より良い人生を送るためのヒントを見つけることができるかもしれません。
日月神示は、現在、多くの出版社から出版されています。また、インターネット上でも、日月神示の全文を無料で読むことができます。日月神示に興味のある方は、ぜひ一度読んでみてください。
三千世界の大道(三界を貫く誠の道)
日月神示の内容は極めて広範囲にわたります。
宗教じゃない!? まさかの宣言
日月神示を開くと、まず目に飛び込んでくるのが、神霊自らの強烈なメッセージ。「この道は宗教ではない!」「教会を作るんじゃない!」と、これまでの宗教のイメージを根底から覆すような言葉が並んでいます。
曰く、これは「三千世界の大道」であり、「三界を貫く誠の道」。つまり、特定の枠にとらわれず、世界全体に通じる普遍的な「道」なんだとか。スケールが大きすぎて、ちょっと想像を超えちゃいます。
アンチテーゼ? 常識を覆す教えの数々
さらに驚くのは、既存の宗教で大切にされている教えに対する、ある意味「挑戦的」な視点です。
- 「右の頬を打たれたら左の頬を出す」は間違い!? → 神示は、それは真の無抵抗ではなく、打たれるような心を抱いているからだと指摘。赤子の無邪気さこそが真の無抵抗であり、争いのない世界を目指すべきだと説きます。
- 奇跡はむしろNG!? → 神示は、奇跡は大きな流れに逆らうもので、魂の向上には繋がらないと断言。正神には奇跡はなく、奇跡がないことこそが大きな奇跡だというのですから、驚きです。
- 断食は幽界の行!? → 他の宗教で重視される断食も、神示では否定されます。神の国で生きる者は、神から与えられる食べ物をいただき、神の仕事をするだけで良いというのです。
大切なのは「喜び」と「感謝」
では、一体何を大切にすれば良いのでしょうか? 神示は「正しい食生活」として、喜びをもって食事をすること、そして腹八分目を推奨します。肉食は避け、五穀野菜を中心とした食事が良いとも。
そして、「人間の生き方」については、「身も心も神のもの」という意識を持つことが重要だと説きます。毎日、生命を神から預かっていることに感謝し、その生命を神の御心のままに使うこと。夜眠ることは、一度神に生命を返すことだと捉え、日々を大切に生きるようにと教えています。
夫婦の関係についても、愛は育むものであり、お互いを信頼し、助け合うことが真の信仰の आधार(土台)となると語られています。
霊界と現界との関係
「二日んの巻」と「龍音之巻」には、私たちが住む現界と深く関わる霊的な世界の様子が詳細に綴られています。
以下に、その主な点を箇条書きでまとめました。
- 霊界は大別して神界と幽界に分かれ、さらに神界は天国と霊国、幽界は陽界と陰界というそれぞれの領域に分かれているとのことです。
- それぞれの領域には、天国には天人、霊国には天使、幽界の陽界には陽霊人、陰界には陰霊人が住まうとされています。
- 幽界は、私たちの人間界(現界)と非常に密接な関係にあり、初期の神懸かり現象の多くは、この幽界からの感応によるものが多いとされ、注意が必要であると述べられています。
- 興味深いことに、幽界は本来存在するものではなく、人間の地獄的な想念が生み出したものだとされています。
- 高位の霊が直接肉体を持つ人間に感応することは稀で、段階を経て感応すると理解しておく必要があるようです。
- 目に見えない世界からの通信は、霊の位が高いほど肉体的な感覚としては弱まり、暗示的なものとして伝えられる傾向があるとのことです。
- 一方、下級霊は現実世界と非常に近い場所に存在するため、その感応は強く、人間にはもっともらしく感じられるため、注意を払う必要があるとされています。
- 高位の霊は、その人の心の状態に応じて同じ波動を持つ神霊に伝わり、その神霊を通して表現されます。下級霊が憑依した霊媒の言動は、高慢であったり、命令的であったり、高位の神名を名乗ることが多いようですが、注意深く観察すれば見分けられるとされています。
- 特別な使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降りてきて人間に特別な通信や指示を与えることがあるそうです。また、天使の霊が人間の母胎に宿り、人間として生まれてくることもあるとされ、末世にはそのような人々が多く現れると伝えられています。
- 特別な使命を持つ天使を除き、人間以外の霊で人に憑依するものとしては、日本においては神、天狗、仙人、狐、狸、猫などが多く、先祖霊に化けて悪事を企てる動物霊も多いため注意が必要とのことです。動物霊が先祖のことを知っているのは、憑依対象である人間の肉体霊の思考を直接読み取ることができるからだとされています。動物霊が人間の言葉を使うのは、他人の家にある道具を使うのと同じような原理だと説明されています。
- 下級霊や動物霊は、基本的に人間の肉体の内部までは入り込めませんが、感応が非常に強い場合は、あたかも入り込んだかのように見えることがあるそうです。例外として、人間の魂と動物の魂が入れ替わっているケースもあり、その場合は肉体に侵入していると考えて良いとされています。
- 仙人は、いかに高位に見えても幽界に属するとされています。その理由は、仙人界には戒律が存在するからであり、神界には戒律がない、真の宗教にも戒律はないとされています。戒律のある宗教は衰退するとも述べられています。ただし、神界にも仙人のような存在はあるとのことです。
- 竜体を持つ霊は神界にも幽界にも存在するため、竜体であるからといって全てが神界に属するとは限らないとされています。
- 先祖霊が現れる場合、何かを頼みたいことが多いようです。浄化された高位の霊となると、人間の肉体に感じられるような感応はほとんどないとのことです。先祖は現界に生きる子孫を土台として修行し、同様に霊界における自分自身も先祖との交流が深いとされています。先祖が神界に属するか幽界に属するかによって、感応の仕方も異なるとされています。
- 下級霊や動物霊の言うことは、支離滅裂で理解しがたいことが多いようです。霊の要求だからといって安易に受け入れるのではなく、よく判断する必要があるとされています。
- 霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多く、霊耳は耳を塞いでも内側から聞こえてくることがあるそうです。また、霊人と直接言葉を交わすことは非常に危険であると警告されています。
- 物事の本質を見るには、額の目を使うことが重要であり、額の判断には誤りがないとされています。正神からの感応は額から入り、顔全体、そして全身へと広がっていくとのことです。逆に悪霊が憑依した場合は、体の背後や首筋から感応し、みぞおちのあたりに集まるとされています。
- 霊覚者や行者の中には、奇跡的なことや常識外れな行動をする人がいますが、これらは下級霊の仕業であることが多いとされています。正神には奇跡はなく、高級霊は態度が立派であると述べられています。
- いかなる下級霊であっても、軽蔑してはならないとされています。侮辱すると、反発して手に負えなくなることがあるため、思慮深い対応が求められます。特に病気に関わる霊の場合は注意が必要で、霊には常に愛情を持って接し、良い方向へ導く努力が大切です。邪な要求を受け入れて一時的に病気が治っても、後で悪化することがあるとされています。
- 悪霊自身は、自分のことを悪い存在だとは思っていないことが多いそうです。
- 霊的な良識は、神示や神典などの書物、自身の体験、さらには高度な科学書からも養われるとされています。
- 人間界のことをよく知っている霊は、亡くなって間もない霊、地上で長く生きていた動物霊、または人間に憑依していた霊であると考えられます。
- 神の守護は人間には全く理解できないものであり、分かりやすい守護は下位の神や悪神によるものだとされています。悪神のボスのような存在になると、その守護も人間には理解できないとのことです。
- 日本には日本の守護神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護神が存在するとされています。
- 現代人は9割9分が幽界との繋がりを持っているため、自身をよく見つめ、反省することが重要であると説かれています。
- 霊媒を通してこの世に呼びかける霊の9割9分は邪霊であるとされ、今後はさらにその傾向が強まると警告されています。
- 少しでも怪しいと感じた場合は、それが神の言葉であっても盲信せず、自分でよく考えて判断することが重要です。
- 悪神が憑依した場合、憑依された本人は自分が偉い神様が乗り移ったと信じ込むことが多いとされています。それは、その人の傲慢な心が原因であるとのことです。
- 「我は天照大御神」などと名乗る霊には碌なものがおらず、そのような霊に憑かれた人間は大言壮語する傾向があり、信用できないとされています。
- 幽界の霊も時には正しいことや善いことを言いますが、それは表面的な言葉だけであり、行動が伴わないことが多いとされています。
- 良い言葉であれば、たとえ悪神が語っても良いのではないかという考えは理屈であり、真の善言や真言は心と言葉と行動が一致しているからこそ力を持つとされています。偽りの言葉は、落ち着いて聞けば分かるものだと述べられています。
- その人の心の状態に応じた神しか拝むことはできず、悪い心で拝めば、立派な神前であっても悪神が感応します。逆に悪神を拝んでも、正しい愛や喜びがあれば、悪神は退き、善い神が現れるとされています。
- 二重人格や三重人格は、複数の憑き物が入れ替わることによって起こり、群集心理はその時の一時的な憑依霊たちの仕業であるとされています。また、流行病のほとんどが邪霊集団の作用や仕業によるものだと考えられています。
- 霊人に何でも分かるとか、神懸かりで世界のことが全て理解できるというのは大きな間違いであるとされています。
- 人は死ぬ時の想念がそのまま続き、その想念に応じた世界に住むことになります。この世を天国として生きていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は地獄のような世界へ行くことになるそうです。
- 神界から直接感応する想念が正流であり、幽界から、あるいは幽界を経て流れてくる想念が外流であるとされています。
- 神的自分が本守護神、霊的自分が正守護神、幽界的自分が副守護神であり、本守護神は大神の歓喜であるとされています。
- 偶然の中に隠された真理を理解することが重要であり、この世に偶然というものは一つも存在しないとされています。高い所(神界、天界)から来る出来事が、人間には偶然や奇跡に見えるだけであり、神からの現れであると理解すれば、大きな安心と悟りが得られると述べられています。
- 人間の肉体は最も下層に位置するため、肉体的な動きの前に必ず霊的な動きが存在します。また、肉体的な小さな行為であっても、霊的には大きな意味や働きを持つことが多いとされています。
- 天界で起こった出来事は必ず現界にも起こりますが、その時の現界の状況によって、早まったり遅れたり、順序が変わることもあるそうです。天人や天使の行為が人間に影響を与える一方で、人間の自由な意志による行為も天界や霊界に影響を与えるとされています。
- 悪いこと(天災や戦争、社会の騒動など)を待ち望む心は魔の心であり、そのような心を持つ人は悪魔に利用されていると警告されています。
以上が、日月神示に記された霊界に関する記述の要約となります。これらの記述は、私たちにとって理解し難い部分も多いかもしれませんが、霊的な世界の存在や、私たち自身の心のあり方がいかに重要であるかを教えてくれているのかもしれません。
予言のベールに隠された真実
日月神示がオカルト的に注目される最大の理由は、その予言性です。まるで現代社会の出来事を予見していたかのような記述が数多く存在すると囁かれています。
- 「ミロクの世」の到来: 物質文明の終焉と精神世界の awakening(覚醒)、調和と平和に満ちた理想郷の出現。これは、現代社会の閉塞感や精神的な渇望と共鳴するものではないでしょうか?
- 大峠(おおとうげ): 世界規模の混乱や天変地異、戦争などを指すとされるこの言葉。近年の世界情勢や自然災害の頻発を考えると、単なる偶然とは言い切れないような気がしてなりません。
- 「カミの仕組み」: 人知を超えた大きな力が、世界をあるべき方向へと導いているという思想。それは、私たちの理解を超えた宇宙の意志なのかもしれません。
もちろん、これらの記述を文字通りに解釈することには慎重であるべきでしょう。しかし、その曖昧さの中にこそ、様々な解釈を生み出す余地があり、私たちの想像力を掻き立てる魅力があるのではないでしょうか。
オカルト的視点からの深層解読
日月神示を単なる宗教書として捉えるのではなく、オカルト的な視点から深く掘り下げてみましょう。
- 霊的な進化の段階: 神示に登場する様々な神々や霊的存在は、人類の霊的な進化の段階を示唆しているのかもしれません。国常立尊という根源神から始まり、様々な神々が登場する構造は、私たちの魂の成長の過程を象徴しているとも考えられます。
- 集合的無意識へのアクセス: 自動書記という現象は、ユング心理学で提唱された「集合的無意識」へのアクセスを示唆している可能性はないでしょうか?人類共通の深層心理に眠る知識や未来のヴィジョンが、岡本天明氏を通して顕在化したのかもしれません。
- 異次元からのメッセージ: もしかしたら、日月神示は私たちとは異なる次元に存在する知的生命体、あるいは高次の意識体からのメッセージなのかもしれません。その難解な言葉遣いは、私たちの三次元的な思考では捉えきれない高次元の情報を無理やり翻訳しようとした結果なのかもしれません。
終末と再生のメッセージ
日月神示は、決して明るい未来だけを語っているわけではありません。「大峠」と呼ばれる試練の時代が訪れることも示唆されています。しかし、その終末の先には、必ず再生の道が開かれると説いているのです。
それは、古い価値観やシステムが崩壊し、新たな精神文明が築かれる未来。私たちが物質的な豊かさだけを追い求めるのではなく、魂の成長を重視する世界へとシフトしていく可能性を示唆しているのではないでしょうか。
おわりに
新しい価値観との出会い?
日月神示は、私たちがこれまで当たり前だと思っていた宗教観や道徳観に、新しい視点を投げかけてくれます。それは、特定の教義に縛られるのではなく、より根源的な「道」を歩むことの重要性を教えてくれているのかもしれません。
夜空を見上げながら、私は今日も考えます。日月神示が本当に未来を予言しているのだとしたら、私たちはこれからどのような時代を生きるのでしょうか?そして、そのメッセージをどのように受け止め、行動していくべきなのでしょうか?
このブログが、皆さんにとって日月神示という深淵なる謎に触れるきっかけとなり、それぞれの心の中で眠る探求心を呼び覚ます一助となれば幸いです。もちろん、その内容は深く、様々な解釈があるでしょう。少しでも日月神示の世界に触れ、何かを感じていただけたら嬉しいです。
それでは、また次回の都市伝説?!でお会いしましょう。あなたの背後にも、未知なる何かが潜んでいるかもしれませんよ……。皆さんは、この記事を読んでどんなことを感じましたか?ぜひコメントで教えてくださいね!
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